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”演奏に心はこもらない”の補足

私が書いた記事に関して、カナメさんがわざわざ彼女のブログにコメントを書いてくれました。

「楽器の演奏には心がこもると思う」という内容だと理解しました。
はい、そういうアンチな感想があって当然の記事だったと思ってます。私自身、むしろカナメさんの書いた内容の方が一般的な感覚からいって当たり前の常識だと分かってます。

そこを敢えてあのようなことを書いたのは、一つの理由は、みんながみんな異口同音にそっちサイドの話ばかりする。他の方向から見て話す人が誰もいないから、それではと私が他の人のしない話をしてみせた、というところです。

それともう一つの理由は、そっちサイドの話は、いくら聞いても役に立たないのですよ。気持ちのよい音色で笛を演奏するのに、なんの役にも立たないです。この”役に立たない”というのは、私にとって重要な判断基準です。

”演奏に心がこもる”という絶望

渡米して数年間、ネイティブアメリカンの集落で私は彼らと生活を共にした。電気もない泥だらけの日々。彼らと苦楽を共にする中で、私は彼らの考え方や生き方、とりわけネイティブアメリカンの世界観を深く学ぶことができたと思う。そして私の魂の旅の締めくくりとして、私は聖地セドナを巡礼した。穏やかなスピリッツに満ちた岩砂漠の地平に昇る鮮やかな朝日を見たとき、私の中の何かが変わったことを確かに感じた。私がほんとうの意味でインディアンフルートを吹けるようになったのは、この瞬間だったと思う。まさにこの瞬間、私は生まれ変わったのだった。

……いかにもインディアンフルートの演奏家や講師が語りそうな自分史です。ウェブサイトのプロフィールに掲げていたり、ワークショップすると冒頭でたいてい、このような経験談を聞かされます。どうでしょうか。ワークショップの冒頭でそんな話を聞かされたら、

私なら絶望します。

現地でネイティブアメリカンの世界観を学び、聖地セドナで心洗われる体験をしなければ彼のような素晴らしい演奏ができないなら、製鐵の町に生まれ、日々を乱雑に散らかった仕事部屋の机にしがみついて過ごし、日本語しか話せず、生まれて一度も日本の外へ出たことがない私では、彼のような素晴らしい演奏はきっと一生かかってもできないだろう……と、私なら絶望します。

それよりも「音は空気の振動にすぎない。プロの音もあなたの音も単なる空気の振動だ。もしプロの素晴らしい演奏とまったく同じように空気を振動させることができたなら――プロとまったく同じ息使いと指使いで演奏することができたなら、あなたもプロとまったく同じように聞く人を感動させることができるだろう。」と言われた方が、よっぽど希望が持てると思いませんか。

事実なので何度でも主張します。
確かに私は真剣に笛を演奏しますが、心をこめて演奏しているわけではありません★1 。一心不乱に正確に息を使い指を動かしているだけです。ここに私の心は無関係です、まったく完璧に技術の問題です。ロボットがプログラムに従って自動車を組みたてるのと同じこと。正しく息を使い、正しく指を動かしさえすれば、誰でも同じ演奏を再現できます。
と言われたら、「ロボットにでもできるなら、私にもできる……の?」という気になりませんか。

少しでも早く新人を独りだちさせる現場主義

工学は効率を第一に考えます。
私のいちばんの気がかりは、経験のない初心者をできるだけ短期間でいっぱしの演奏家★2 に仕立てあげることです。そのためならなんだってする。常識を否定するなんて最初から織りこみずみです。自分の心を否定することで少しでも早く初心者が上達するなら、ためらいもなく自分の心を否定します。

この一切の容赦ない姿勢が、他の分野の人――とりわけ純粋な音楽家や演奏家にとっては脅威に感じられるかもですが。どうしても理解する気になれないなら「赤い眼鏡をかけていると何でも赤く見えるのですね」くらいに思ってください。(そしてそれは世界の真理です。)

★1 心をこめて演奏しているわけではない
ぶっちゃけ私程度の腕では、フルートが発する音を完璧に制御するために――息使いと指使いを完璧に制御するために、頭はフル回転のぱんぱんです。とても心をこめてる余裕なんてありません。

本当はカナメさんが言うとおり、演奏に心がこもることは、あります。
でもそれは達人の話です。達人はフルートが自分の身体の一部になっていますから(雨上がりの空のように澄みきった真っ青な…)と思った瞬間にそれが音に反映されます。

でも初心者がそれを真似て(雨上がりの空のように澄みきった真っ青な…)といくら念じたところで、後で「途中でぼんやりしてたけどメロディーを忘れたの?」と訝しがられるのがオチです。初心者レベルではせめて、聞く人が(まるで雨上がりの空のように澄みきった真っ青な音だ…)感じてくれるようにと、そのように聞こえてくれるようにと、せっせと息を使い指を使って演奏してみせるのが関の山です。
私はそういうことを言ってます。
だから私が言ってることって基本的にど素人の演奏家向けですよ。

★2 いっぱしの演奏家
日曜音楽家、という言い方を私はします。一流のプロになることは望めないが、せめて自分で吹いていて「今のいい感じじゃない?」と自惚れる程度。家族や友だちから「いいね!もっと他の曲は吹けないの?」と催促してもらえる程度。

その程度に上手になるだけでも、いつもの生活がずいぶん楽しくなると思ってます。ちょぴり誇らしい人生を送れると思ってます

楽器があればもっと楽しい毎日
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コメント

何度も言いますが、こんな心ない私でもあの動画くらいにはいい感じに演奏できるということです。そしてそのことは希望なのです。「もうこうなったら悪魔とでも契約してやるっ!」と十字路に立って、初めて見える最後の希望です。だから多くの人にはそれが希望に見えないかもです…

十字路に立って悪魔と向かい合ったときに、思い出してください。

すだれさん、どもです。

ぢぶんのささやかなブログの記事を取り上げていただきまして、ありがとうございます。

すだれさんの発言の真意がよく分かりました。本当に初心者や日曜演奏家のことをよく考えてらっしゃるんですね。自分の演奏を「十字路で悪魔と向かい合ったときの最後の希望」なんて形容、普通の人では考えられないでしょうが、ぢぶんにはすっと納得できました。

「こころ」がこもる演奏というのは、ぢぶんも多分できません。すだれさんと同じく、指使いや息遣いに一生懸命で「こころ」まで気を配れませんから。

それでも、演奏には「こころ」を込められるものだと思うのは、単なる夢想家なのでしょうか?それは神のみぞ知るといったところでしょうか?

> それは神のみぞ知るといったところでしょうか?
科学は人の心の実在を認めてませんからねえ……

私自身、音楽を聴いていて「くぅ泣ける!」という感動を味わう事はしょっちゅうです。そしてその「自分が感動したという事実」に関しては事実として認めていいと思います。しかしその感動の原因がどこにあったか、となるとどうでしょう。

世阿弥の風姿花伝には「華は見手に咲く」とあるそうです。音楽演奏に例えるなら、演奏(曲)自体が感動的なのではなくて、聞き手の心の中に感動が生じるのだ、みたいな意味だと伺っています。それは、私はすごく納得できます。

私は楽器の生演奏を聴く機会はほとんどなくて、音楽を聴くといえばもっぱらmp3プレイヤーにイヤホンです。それで「くぅ泣ける!」とのたうち回っているわけですが。客観的に見れば、両耳に差したイヤホンの小さな膜がびりびり振動しているという事実があるだけです。うーん厳密に考えると、音楽そのものに心がこもったり感動が乗ったりすることは無いっぽい。音楽はやっぱり単なる空気の振動で、それが引き金となって聞く人の心の中に感動が生じる。伝わっているのではなくて、生まれている、というのがやっぱり真相だと思います。

以上は頭で考えるとそうとしか考えられない、という話です。自分の心の中に感動が生じる瞬間を人間は自覚できません。だから自覚としては、音楽に乗って感動が外から自分の心の中に飛びこんで来たように感じる。それでいいと思います。私自身、日常生活の中ではふつうに「最後の演奏は心がこもってて良かったねえ」などと言ってますし。

しかし自分自身で楽器を演奏したり、他人に演奏することを教えるときは、正確に物事を押さえておかないと上手くいかない。さもないと川に映った月のように有りもしないものをいつまでも追いかけることになってしまう。
そういう状況で成り立つ話です。

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